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ハロー!NEOニッポン

2022.03.17

手芸を通して、たんたんと。世代を超えて会話をする場・名古屋『港まち手芸部』

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写真撮影|江本典隆、山田憲子、宮田明日鹿 画像提供 | 港まち手芸部


名古屋駅から中央本線に揺られて約5分、金山駅で地下鉄名港線に乗り換えてさらに10分。「築地口つきじぐち駅」で下車して地上へ降り立つと、ほんのりと磯の香りが漂います。まるで南国のような雰囲気を醸す道は、大きく広々としており、名古屋港までど〜んと一直線! 海のない町で育ったわたしにとって、この土地が放つ香りは胸いっぱいに吸い込みたくなるような気持ちよさ。町の人は、この場所を「港まち」と呼んでいました。

年齢不問、性別問わず。課題なし、自由参加OK!

港まちには、“昔ながら” という枕詞が似合うような喫茶店や個人商店、見るからに常連で賑わいそうな居酒屋が残る商店街があります。辺りを見回しながら散歩してみると、古きも新しきもまぜこぜにしたような、なんだか不思議な雰囲気。その感覚を象徴するかのような、とてもおもしろいビルがあります。その名も『港まちポットラックビル』。

“いろんな世代の人が出入りするビル” というと、あまりにもざっくりとした説明になるでしょうか。子育て交流サロンやガーデンプロジェクトなど、町のあらゆる活動の拠点となっているほか、この辺りではよく知られる憩いの喫茶店『きっさ姉妹』の店主による俳句の会も行われているそう。中でもとりわけ元気に、そして地道に活動を続けているのが『港まち手芸部』。参加資格は年齢不問、性別問わず。毎週木曜日の10時から12時まで、主に20代から90代までの部員が集まります。

港まち手芸部(以下、手芸部)の一番の特徴は、課題がないこと。そして、好きなときだけ参加してもいいこと。そんなゆるい雰囲気も相まって、毎回12〜15人が入れ替わり、立ち替わりに集合。2017年にスタートしてから5年経つそうですが、一度でも参加した人を数えると、部員は延べ130人ほど。材料や道具は、寄付などで集まったものを使ってもよし、好きなものを持参してもよし、すべてが自由! 

「わたしは運営しているだけで、実は最近、編んでもいないんですよ。楽しそうに手と口を動かしている部員たちを見守っています」と笑うのは、手芸部の部長・宮田明日鹿さんです。

宮田 明日鹿みやた あすか

港まち手芸部・部長。ニット、テキスタイル、改造した家庭用電子編み機、手芸などの技法で作品を制作。自分や他人の記憶を用いて新たな物語を立ち上げ、顧みることなく継承されてきた慣習や風習に疑問を投げかけている。近年では、手芸文化を通して様々なまちの人とコミュニティを形成するプロジェクトを各地で継続している。名古屋出身。

ドイツの小さな町に根付く、ゆるやかなコミュニティをお手本に。

ふだんは家庭用編み機を操り、ニットやテキスタイルのアーティストとして活動する宮田さん。ある日、この港まちと出会い、ご縁に導かれるように手芸部の活動を始めます。

「十数年前まで商店街で手芸用品店を営んでいた行田貞子さんに先生をお願いする形でスタートさせました。手芸部はもともと、わたしが行田さんのような編みものの達人たちに技を教えてもらいたい!という想いから始まったんです。部長だけれど、当時は最年少。不思議な部活ですよね」

東京の桑沢デザイン研究所でファッションを学んだあと、カットソーメーカーに勤めていた宮田さん。家庭用編み機に出会ったことで、自分も手を動かしてものづくりがしたいと想いを新たにしたそうです。

「5年勤めていた会社を辞め、とにかく海外へ行こうとしていたら、知人が日本好きのドイツ人夫婦を紹介してくれました。たまたまベビーシッターを探していて、日本語も話せるというまたとない条件。すぐにオンラインで面接をし、3ヶ月後にはドイツに向かいました。27〜28歳の頃でした」

ヨーロッパ全般では編みものが文化として定着しているといいます。家庭用編み機を持った宮田さんがたどり着いたのは、ドイツの西部に位置するクラウセンという小さな町。わずか1500人ほどしか住んでいない小さな町には、バスケクラブや体操クラブなど、町限定のコミュニティが根付いていたそうです。

「わたしは歌クラブに入りました。週1回、男女混合で集まって遊んでいるような感じでした。高齢者が多いんですけどね。完全にオープンではないけれど、閉鎖的でもない。それに必ず参加しないといけないわけでもないから、よくサボってはいたのですが(笑)、合唱後の1杯とおじいちゃんやおばあちゃんたちとのおしゃべりはとても楽しくって。そのゆるやかさがとてもいいなあと思っていたんです。帰国したあと、港まちづくり協議会やMAT,Nagoyaなど、アートによる町づくりを進めていた港まちと出会い、“何かやってみない?” と声をかけられたとき、“クラウセンの歌クラブのような場が作りたい” と思ったんです」

おしゃれ番長の行田さん、レース編みの島崎さん、素敵な先輩たちに囲まれて。

「でも、まさかこんなに続くとは思ってなかったですね」という手芸部も、あっという間の6年目。今年の1〜2月には、5回目の手芸部展が開催されました。コロナ対策のため、人気の編みものワークショップは中止になってしまいましたが、会場はとても賑わっていました。

課題のない部員たちの作品は、本当に自由。自分のため、娘や息子のため、孫のため、それぞれが作りたいものを作り、仕上げていきます。もちろん、締め切りもありません。

発足時は先生として参加していた行田貞子さんは最年長の95歳。洋裁も、和裁もこなし、着ているものはほとんど自分で編んでいるという凄腕! その軽やかな着こなしを見ると、若い頃からさぞかしおしゃれ番長だったのだろうと思うものですが、行田さんの夫は生前、妻がおしゃれをしたら怒るような人だったそう。おしゃれを楽しむようになったのは、ここ最近のことだとか。出会った頃と比べ、歳を重ねるごとにどんどん素敵になっているそうです。

手芸部のチラシを見てやってきた島崎惠都子さんは、「編みもの、お得意なんですか?」と聞く宮田さんに「実はね、得意なの!」と美しいレース編みの数々を見せてくれたといいます。

「レース編みは目が細かいから、ご高齢の方にとっては本当に難しいんです。20代の部員もチャレンジして断念したほど。でも、島崎さんは完成まで時間がかかるからこそ、楽しめる時間も長いレース編みが大好きなんですって。かさばらなくて、時間がかかるレースはわたしに合ってるの、とおっしゃるんですよ」と宮田さんもなんだか誇らしそう。

すでにたくさんの作品を持っていたため、レース単独の展示会も開催。ご本人も「これ、誰が編んだの?」と、おどけながらも感動していたそうです。

「わたしも会場に入った瞬間、島崎さんとレースの時間に圧倒されて、すごいなと思いました。島崎さんに“日の目を見たわ”と言ってもらえて、展示会をやってよかったなと心から思いました」

世代による価値観の違いは、会話で共有していく。

新型コロナウィルス感染拡大の状況を受け、お休みが続く手芸部ですが、たとえ活動がなくてもLINEで連絡を取り合うほど、もはや互いになくてはならない存在。でも、はじめは本音をいえず、まとめるのが大変で疲れきっていたそうです。

「階段に気をつけてくださいね、とか、重いものを持ちましょうか?とか、思えば、気を使いすぎていましたね。変に遠慮したり、勝手におばあちゃん扱いしていたことを反省しています。今のわたしは、みなさんに何かをやってあげているつもりはまったくありません。自分が楽しいと思ってないと、続けられないということに気がついたんです」

『ひとりがみんなに教えるような「教室」ではなく、「学び合う場」にしよう』という、活動を始めたときから変わらない宮田さんの願いは、徐々に徐々に部員たちにも伝わり、変化があったのは宮田さんだけではないようで。

「わたしなんてそんなレベルじゃないわ、と謙遜する人もまだまだいますが、少しずつ教える側に回る方も増えてきました。“道具の準備は当番制がいいんじゃない?” と提案があったりもして。さきほど紹介した95歳の行田さんは、本当にみんなの憧れの的。行田さんの姿を側で見ている60代の方が“90代でもこんなに元気なんて希望だわ”なんていい始めたりして、お互いにいい影響を与え合っているように見えます。わたし自身、長生きするのは辛いのかな?と思っていたけれど、いつも楽しそうにしているみなさんを見ていると、長生きしたくないなんていうもんじゃないなって。気持ちを改めましたね」

20代から90代まで。世代を超えて集まるからこそ、互いの価値観の違い、世代間の考え方の差に向き合う瞬間も多いといいます。

「手芸って簡単に誰でもできるイメージなのはどうしてだろう? どうして手芸は手仕事として認められにくいのだろう? おばあちゃんたちに手芸の達人が多いのはなぜ? 学ぶことを選べなかった時代、女性が選べたのが家政学だったという背景もあるのかも?一括りにしてはいけないとは思いつつ、“時代が違うわね”と言われるたびにいろいろなことを考えるようになりました」

時には意見が食い違ったりすることで真っすぐに会話をしている、と宮田さんは続けます。

「こういう仕事をしていたから出会えた人たち。手芸部のみなさんに会えて、アーティストになってよかったなと思っているんです。名古屋出身ではあるけれど、港まち出身ではないわたし。今も三重県から1時間30分ほどかけて通っていますし、まだまだよそ者の気持ちでいます。でも、この町を歩いたら必ず誰かに会ってまっすぐ目的地に到着できない。受け入れてくれて本当にありがたいですし、この町に来るたびに時空が変わったような、旅人のような、不思議な気持ちになれるんですよ」

宮田さんの交友関係は、部員だけには止まりません。1週間に1着セーターを編むことで知られる豊田元江さんはこの町で知らない人はいないのですが(「豊田さんのセーター」で有名)、一匹オオカミのため、手芸部に誘っても「ひとりで編みたい」と断られたそう。それでも、港まちへ来るたびに会いにゆく、大切なたいせつな存在。豊田さんにとっても孫みたいな感じなのでしょうか?と尋ねると、「どうでしょうか」と照れくさそうに教えてくれました。

「“あなたと出会って楽しんでるよ”と言ってくれたことがあって。憎まれ口をたたきながらも、最近よく“ありがとう”という言葉をくれるんです。わたしの祖母も手芸がものすごく上手だったのですが、この町にいると、祖母の記憶を思い出しながら、重ねているところがあるのかもしれません。たんたんと物を作ったり、いろんな人と出会ったり。世代を超えて会話をし、学び合える場として、これからも手芸部を続けられたらいいなと思っています」

わたしの祖母も針仕事がとても上手でした。幼い頃は、リカちゃん人形の洋服を縫ってくれたり、パパッと端切れを縫い合わせて小豆を入れたお手玉を作ってくれたり。大人になってから譲り受けた半纏(はんてん)は柄布の組み合わせが最高にいかしており、袖を通すことでじんわりと祖母のことを思い出せます。

作るよりも買うほうが手軽になっていたり、手作りをしたくてもその時間が取れなかったり、手芸部のみなさんの言葉を借りれば「時代が違うわね」ということはたくさんあります。手芸という共通点を持った人たちが世代を超えて真っすぐに会話をすること、そして確かな手仕事を引き継ぐこと。港まち手芸部のゆるやかな活動には、わたしたちが後世に繋いでいくべき大切なことがギュッと詰まっていたように思います。

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長嶺李砂編集者

1984年、青森県十和田市生まれの昭和っ子。子ども時代からの夢だったパティシエになるも紆余曲折、現在は書籍や雑誌、WEBサイトなど、「食」を中心に幅広いジャンルで活動する編集者。とにかく、おいしいものには目がない。昔ながらの店、味、手仕事が好き。

「NEO(ネオ)」という言葉には、“新しい”や“復活”という意味があります。めぐる時代で生まれる流行、地域に伝わる習わし、伝統品のリバイバル、新しい若者文化も「日本らしさ」のひとつ。本コラムでは、長い歴史や伝統へのリスペクトを忘れることなく、「文化って楽しくていいよね」、「こんなものも文化って呼んだっていいんだ」という驚きと発見、おもしろさを発信していきます。

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