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日本百貨店
HISTORY

ニッポンの百貨をおもしろく。

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歩歩創成期

国内で認知させたいMade in JAPAN

国産製品は品質が良く長持ちする––––。周知の事実にもかかわらず、創業当時の日本では、いま以上に海外ブランドを求める風潮がありました。私たちは日本の素晴らしいモノについて、きちんと価値を理解しているのだろうか。目の前にある日本のモノヅクリはないがしろにされてはいないだろうか。そんな様々な想いが重なり合った結果、「ニッポンのイイモノを輸出してブランド化する」ことを軸に、2006年3月に日本百貨店の前身である「株式会社コンタン」が誕生しました。
コンタンのスタートは、ニッポンブランドのアパレル輸出から。海外での商談では日本のデニムや帆布などのモノヅクリに対する尊敬の念が感じられ、マーケットはあると確信しました。しかしながら葛飾区のブリキ職人・江東区の江戸切子職人・桐生市の和紙職人と、モノヅクリに携わるたくさんの方々と触れ合うにつれ「こんなに素晴らしいモノが日本にはたくさんあるのに、どうして日本人にさえ知られてないのだろう」といった想いと疑念が膨らんでいきました。
海外マーケットを見据えるよりも前に必要なことは、日本のイイモノが国内できちんと認知されること。そしてモノヅクリが続けられるよう、きちんとお金が廻る仕組みを作ることではないだろうか。これが発端となり、アパレルに限らず食・雑貨・伝統工芸品と、すべてのMade in JAPANを対象とした「日本百貨店」のオープンに向けて歩みを進めることとなりました。

歩歩発展期

図らずも転機となった東日本大震災

構想から丸3年が経った、2010年12月10日。モノヅクリの街である東京・御徒町の2k540(ニーケーゴーヨンマル)に「日本百貨店」1号店が誕生しました。そしてオープンからわずか3ヶ月後に起きた、東日本大震災。店内はめちゃくちゃになり、商品が入荷しないといった事態に見舞われました。
店を守っていこうと細々と営業を続けるなか、弊社の食品を求めるようにパラパラと訪れるお客さま。「やっていて助かった、また来るよ」といった安堵の会話とともに、日本百貨店は再び動き出しました。
震災から1ヶ月経ち、日本百貨店にとって思いがけないことがふたつ起こりました。ひとつは、震災後に訪れてくださったお客さまが常連になってくださったこと。もうひとつは、震災の影響で図らずも日本製品に注目が集まるようになったこと。その年のゴールデンウィークには考えられないほどのお客さまが訪れ、うれしい悲鳴をあげることとなりました。
その後は “作り手と使い手の出会いの場”を増やすべく、「ここだ!このヒトだ!」と思った場所や人物を見つけては、新規出店を行うことに。この際私たちが柱としていたことは、担当者の熱意や我々への賛同といったヒトとの出会い。私たちも商業施設の一助になれればと、心から願っています。

歩歩変革期

ニッポンのモノヅクリが持続する豊かな社会へ

「百貨」とは「いろいろな商品」という意味を持つ言葉。南北に長く気候風土が土地ごとに大きく異なる日本において、地域の暮らしに根付いた「いろいろ」なモノにこそ、日本文化の根幹があると私たちは考えています。そんな文化が疲弊することなく、ずっとずっと持続する豊かな社会を実現するために必要なことは、作り手がクオリティに見合う対価を受けること。「ニッポンのモノヅクリにお金を廻す」といった創業時からの使命を実現すべく、日本百貨店は存在しています。
日本百貨店において、すべての原点となるのはヒトづきあい。だからこそ“一緒に取り組む”といった信頼関係を築き、モノヅクリに込められた作り手の熱量や想いを知るためにも、私たちは作り手と直接会うようにしています。売り手は作り手の代弁者。彼らの想いをしっかりとお客さまに伝えなくてはならないからです。
これまで培ってきたヒトとのつながりや絆は、私たちの大切な資産。“作り手、使い手、売り手の三方よし”という考え方はそのままに、ニッポンの百貨をおもしろく。日々の暮らしを笑顔にする「いろいろ」を発掘・提供することで、ビジョンである「ニッポンのモノヅクリ文化を未来へ」を実現していきます。